プログラマ旅行記

カナダに滞在してるプログラマです。たぶん歴史/文化/政治とかそのあたりの思った事をかきます。

ハードウェアスタートアップとRing

カナダのハードウェアスタートアップが熱い。腕の筋肉の情報を読み取って入力にするMYO、脳の感覚を読み取るMuse、腕の筋肉の圧力を計測するPUSH...本当にたくさんのスタートアップがここにはある。「新しいものを作る」ということに対して特に何も抵抗が無いし、失敗してもそれ自体を批判をされることは無いだろう。

最近、Kickstarterで話題になったRingが発送された。ところが、話題になった記事を周ってみると「炎上した」だの「サイズが大き過ぎる」などのネガティブな見方の記事が多い。発送されて使える状態で発送されているのだから、それを褒めたらいいのに、と思う。

日本では基準値を少し上回っても褒められる事は無いが、カナダならすごく褒められるだろう。逆に日本では基準値を下回ると物凄く批判される。そのような環境ではスタートアップは生まれにくいのだと思う。

小さなスマホはもう古い、情報端末としてのApple Watch

1. 既存のアプリにとってiPhoneは既にオーバースペック

日常で使用するアプリは今のiPhoneにとってはオーバースペックすぎる。通知の確認、電車の経路をチェック、Foursquareでチェックイン、これらの作業をする為に端末が高機能である必要がどこにあるのだろうか?これらのアプリは数世代前の端末でも実行出来る。想像して欲しい。もし、今スマホタブレットも存在せず通信環境だけがあるとして、進んでノートPCを開いて通知を確認したり、経路を確認したりFoursquareでチェックインしたりするだろうか?おそらく、やりたくないだろう。僕が今のiPhoneに感じているのもそれで、単に鞄から取り出すのが面倒くさいのだ。

2. Apple Watch(*1)が「取り出すコスト」を最低限にする

そこでサブの情報端末としてApple Watchが必要になる。なぜなら、今は何をするにも「iPhoneをポケットや鞄から取り出す」というコストが発生するからだ。例えば、今は通知を見るのも、タスクリストにチェック入れるのも、Foursquareでチェックインするのも、電車の経路を見るのもiPhoneを必ず取り出さなければいけない。その上、そのiPhoneオーバースペックなのだ。Apple Watchがあれば、通知はApple Watchで受け取って必要に応じてiPhoneを取り出せば良い。今までは通知を確認するだけでも必ず取り出さなければならなかった。
また、電車の経路はiPhoneで調べて、その結果はApple Watchに表示されたほうが便利だ。なぜなら、経路は乗る前に調べるもので、それを参照するのは実際に乗り換える時だからだ。

最近はウェアラブルデバイスをはじめとする外部デバイスとスマホの連携が流行っている。例えば、日々の体重をアプリと連携して記録できる体重計。これらは実在するデバイスと連携して人々の生活を便利にするものだ。一方で、Apple Watchは体重計のようにこれ自体が特別な機能を有するわけではなく、あくまで情報端末の拡張である。

3. iPhone6 Plusと「取り出すコスト」の釣り合い

Apple Watchが出ると小さなスマホは不要になる。なぜなら、小さいタスクはApple Watchでこなすことができ、一方でスマホを取り出す必要がある状況はブラウザを開く、メールを書く、写真を見る、Facebookの確認等の端末が大きければ大きいほど便利になる作業だけだからだ。だからiPhone6 Plusのようなサイズにしたのだろう。先程も書いたが、スマホの欠点は「取り出さなければ使えない」という点にある。そしてそれはサイズに依存しない。例えば、今までは通知を確認するのもウェブブラウザを開くのも、等しく「スマホを取り出す」というコストが発生した。だからこそ、小さいタスクに対してはスマホを取り出さなくてもいいように、時計型だとかメガネ型のウェアラブルデバイス(*2)が開発されているのだ。

iPhone6 Plusは本来はApple Watchと一緒に出るはずだったのだと思う。そして、iPhone6 Plusを今買ってしまった人が不満を言うのも分かる。なぜなら、すべての作業に対して「取り出すコスト」を支払わなければならないからだ(*3)。

(*1) スマートウォッチ全体に言えることではあるが、やはり一番Apple Watchが影響力が大きいだろう
(*2) ここでは「情報端末」として考えて欲しい
(*3) 単にでか過ぎて片手で持ちにくく操作しにくい、という理由があると思う。ただそれも、片手で出来るようなことはすべてApple Watchで解決したいのではないだろうか

短所無くそうとする日本人

今日は長所と短所に対する考え方について。

1. 短所を許容しない文化

日本では長所を伸ばすよりも欠点を無くすことに重きを置かれる。何かに秀でた人ではなく、平均点以上の人を評価する。例えば、テストで100点を取っても褒められることはないが、0点を取ったら物凄く怒られるか心配されるだろう。「あの人は勉強出来るけどスポーツはダメ」「技術はあるけどコミュニケーション能力が無い」という言い回しは長所を褒めているのではなくて短所を指摘する為の言葉だ。「あの人はスポーツはダメだけど勉強は出来る」と言い方は滅多にされない。一方で、海外では長所を伸ばすことが中心になっていると感じる。今行っているカナダの英語学校でも、殆どの先生はそこそこ出来ていれば褒めるが、失敗を指摘することは無い。そもそも、短所を重要な直すべき部分であるとは考えない。なぜなら、他人と違うのは当たり前、長所と短所があるのは当たり前、と考えているからだ。

2. 失敗しない = 成功

日本人は「良い」を「悪いところが無い」と定義しているように思う。例えば、結婚相手探しにしても条件として「年収」「学歴」「見た目」「性格」などの観点で相手を比較し、何か1つ悪いところがあるとそれを理由に減点する。ゆえに、結婚相手探しにしても、会社の人材採用にしても、それは「相手に悪いところが無いか」を探す為のプロセスになっている。なぜなら、悪いところがあればそれが失敗に繋がると考えているからだ。確かに、失敗しないことが成功に繋がる分野もある。例えば、自動車を作ることだ。事細かに設計し、シミュレーションし、設計が決まったら実際に製造する必要がある。なぜなら、設計のミスは製造行程を後戻りさせ、損失を生み出すからだ。

3. 日本人としてどうあるべきか

「日本人の仕事の質が高い」というのはよく聞く言葉だ。日本人に限らず、誰しも失敗は避けたいと考えるし、実際に失敗をしない努力を重ねているだから信頼は厚いのだろう。日本人の良いところでもある。どうしたらよいのかは...まだ分からない。

日本の文化を知らない日本人

日本人が日本の文化を知らないのは、「なぜ」と問う必要がないからだ。先日の記事(
日本人の英語が伝わらない理由 - プログラマ旅行記)
とも関連する。

1. はじまり

今日、英語学校でメキシコ人からこのような質問をされた。

  • 何故、日本には中華街があるのか?日本と中国は近いのだから行けばいいじゃないか
  • 何故、日本は家に入るときに靴を脱いで上がるのか?

そのような質問をされるとは思っていなかったので物凄く答えに困ってしまった。文化について質問されて困っているのは僕だけではなく、周りの日本人も困っているようだ。箸の使い方のルール(迷い箸など)は何故存在するのか、無いと誰が困るのか...など。これは英語の能力の問題ではなく、単に日本の文化を知らないというだけである。

2. 日本人にとっての「知っている」とは何か

何故、日本人は日本の文化を知らないのだろうか?僕の答えは日本人が文化を知らないのではなく、「知っている」ということに対する基準が海外と異なる、というものだ。日本人はテストが得意だ。「箸をお皿の上でふらふらさせることを何と言うか?」という問題に対して、「迷い箸」と答えられればそれは知っていると見なされる。学校のテストでも年号を暗記をして、その年号を答えさせることが多い。「物知り」というのはいかに多く知っているかということをさす言葉であり、理由や背景を事細かに知っていることは必須ではない。しかし、それは海外では通用しない。なぜなら、彼らに取っては「知っている」というのは「理由を説明できる」ことと同義だからだ。

3. すべての国民が同じ文化を持つ日本

日本人は理由を説明する必要がない。なぜなら、同じような環境で生まれ育ち、ほとんど同じ宗教を持ち、同じように学校に行って生まれ育った人々が暮らす国だからだ。例えば、日本で暮らしていてお花見をするときに「お酒が飲めない」と言われたら勝手に「ああ、お酒に弱いのか」と言わなくても納得するだろう。しかし、イスラム教だから宗教上の理由でダメだとか、屋外でお酒を飲むのは違法だと思い込んでいる(*1)とか、日本人の視点で考えると思いもしない理由でお酒が飲めない人は大勢いるのだ。海外で理由を説明することが重視されるのは、思いもしない理由であることがよくあるからである。なぜなら、海外の国々は他民族国家であることがあり、文化的背景を共有していないからだ。文化的背景が同じの日本であれば、理由を説明しなくてもコミュニケーションが成り立つ。理由を聞いても皆が同じことを言うのであれば、聞かないのが合理的だろう。

(*1) カナダでは違法

日本人の英語が伝わらない理由

日本人の英語が伝わらないのは主張と理由を伝えないなど、文化的な背景によるものだ。

1. 理由を必要する文化と察する文化

カナダに来て驚いたのはバスでも電車の中でも、子供も大人も”because"を多用していることだ。この間は5歳の子供が自分の好きなおもちゃを紹介するのに、「これが好きなんだよ、なぜならかっこいいから。なぜなら色も緑で腕が動くし…」とこと細かに理由を説明してくれた。先週末は、ボーイスカウトの小学生くらいの子供に「何の募金?」と聞いたときも、その子はほぼ一文ごとにbecauseをくっつけて説明してくれた。このことから分かるように、カナダでは子供の頃から「要求を伝える際に理由を添える」という訓練を徹底されるのだ。同じように、何かを要求される際も「理由」があることで納得する傾向にある。また、カナダに限らず、今まで会ったヨーロッパや南米の人達もだいたい理由を添えて説明をしてくれる。

一方、日本人は別で、他人を納得させる際に理由ではなく時系列順に伝えたり、相手に察してもらうことで要求を伝えようとする。例えば、日本語で「うるさい!」というのは「だから、静かにしろ」という意味が含まれている。これを日本語で直訳してそのまま英語で"You’re noisy."と伝えても、相手に静かにして欲しいという意図は伝わらず、「だから何?」と思われてしまうだろう。静かにして欲しい場合は"Be quiet.”や”Don’t be noisy.”と言う必要がある。

2. 時系列で理解する日本人と結論を先に言う外国人(*1)

もう1つの日本語そのもの傾向として、時系列順に物事を伝えることが重視される。例えば、「今日どうだった?」という質問に対する「朝は何時に起きて、テレビを見て、買い物に出かけて、映画を見て、夜ご飯を食べて、楽しかった…」という回答である。その日にあったことを時系列順に言われると、日本人なら「ああ、そうなんだ」と納得してしまう。しかし、カナダだったら「今日は楽しかった。なぜなら、こんなことがあって…」という具合に先に結論を言うだろう。

3. 伝わらないのは"フォーマットが違うから"

これは単に物事を伝えるフォーマットが違う為にお互いが理解出来ないだけなのだ。外国人が日本人の英語を聞いたとき、文法が正しいにも関わらず混乱するのは結論が先に来ることを期待しているからだ。反対に文法が多少間違っていても、その文に「主張と理由」があって結論を先に伝えているのなら、おそらく意思を伝えることが出来る。なぜなら、聞き手の外国人が期待している情報はそれだからだ。日本人が英語を喋っても何が言いたいのかわからない、と聞く事が良くある。でもそれは、日本人が英語を喋れないからではなくて、日本人の感覚で英語を喋っているからだと思う。

(*1) 「外国人」の範囲が広過ぎるが、カナダ人やアメリカ人あたりを想定している。伝えたい国の人に合わせて伝え方を考える必要があるのかもしれない。

艦これがまずいのは、歴史を学ぶきっかけに"ならなかった"時

艦これをきっかけに歴史を学ぶ」というテーマの記事を幾つか読んだので思った事を書く。艦これをプレイして歴史を学ぶきっかけになり歴史を学んだ場合はそれで良い。だがしかし、問題は艦これをプレイしたが歴史に興味を持たず学ばなかった場合だ。その場合、湾曲された情報だけがプレイヤーの記憶に残ってしまう。

1. ゲームがきっかけで歴史を学ぶ人は少ない

第二次世界大戦を題材にした映画における日本は、大体悪者として描かれている。その映画を見た事は無いのだが、今住んでいるカナダのホストファミリーに「それを題材にした映画の殆どは、日本を悪者扱いしているから見ない方が良い」と教えてもらった。おそらく、これらを見た海外の人は日本が悪い国だと錯覚するだろう。なぜなら、その映画を見た人全てが改めて日本の歴史を勉強し直すということはあり得ないからだ。

これは艦これも同じ問題を孕んでいる。殆どの人は歴史に興味を持たず、艦これをプレイするだけだろう。それ自体は何も悪いことはない。問題は艦これから間違った歴史を学んでしまった場合に、歴史を学ぼうとしなかった人はそれを修正する術が無い事だ。

2. 艦これが人を「歴史」から遠ざける

艦これをプレイすることで間違った歴史を学ぶ可能性はあろうのだろうか?艦これはゲームなのだから、ゲームの内容=歴史のようにそのまま真に受ける人はまずいないだろう。プレイヤーだって学校には行っているはずだから、現実と虚構の区別くらいはつくはずだ。だから、服が破けるから良く無いとか、実際の歴史と違うから間違った歴史を学んでしまうとか、そういう点については特に心配していない。

ただ、艦これは、歴史を学ぶ気がない人に対しては、歴史をむしろ遠ざけているのではないかと思う。なぜなら、戦争だとか兵器が抽象化されすぎていて、戦争というものがあまりに日本と無関係で、遠いもののように錯覚させてしまうからだ。例えば、戦艦の名前を聞いて「女の子である」という認識と「戦争する為の船艇である」という認識はかけ離れすぎている。

3. どうするべきか

歴史を学ぶ、というのはとても良いことだし、艦これをきっかけに歴史を学ぶ人が増えたらそれはすばらしいことだと思う。そのような人を増やす方法としてすぐに思いつくのは「艦これをプレイするだけで歴史が学べるようにする」もしくは「艦これをきっかけに歴史に興味を持つ人を増やす」のどちらかである。艦これをきっかけに実際の戦艦を見学に行く、というのが増えているらしいが、良い傾向だと思う。どうしたら良いのかはまだ答えは出ていない。

日本人は新しいものを作れない

現在カナダでホームステイをしているのだが、ホームステイ先のマザーにそう言われた。車を発明したのはダイムラーとベンツ、テレビを発明したのはイギリス、パソコンはApple(*1)だ。確かに今、ホンダやトヨタの車がカナダ国内で走り回っているし、家では東芝のテレビとパソコンが使われている。でも、それは日本が発明したものではなくて、他の国で発明されたものだ。そのアイデアを日本が真似して、(当時)低価格かつ高品質な製品を作って世界中に売ったのだ。

日本が発明して世界で売れたもの、というとウォークマンくらいしか思いつかない。確かに、任天堂が作ったWIiやDSは世界で売れたし、ジブリのアニメは世界でも有名だ。それでも、日本で作った最初のテレビゲームはATARIのPONGのコピーだし、日本がアニメを最初に作ったのは1950年以降、ディズニーが白雪姫のカラーアニメを作って10年以上も経ってからだ(*2)。

日本人は新しい何かを作るよりも、既にあるものを改良したり、製作プロセスを改善、進化させるのは得意だ。例えば、ニコニコ動画を見ていると、オリジナルの曲を公開する代わりに既存の曲を歌ったり、楽器を弾いたり、ミクに歌わせたりする動画が目立つし、MADのようなアニメの音声や画像の素材を使って組み合わせた動画が多い。これも既存の何かを進化させることに長けるという国民性の表れだろう。

「日本は昔、ジャンクな製品を沢山作って売ったのよ」

とも言われた。高度経済成長期、米国と比べて安い製品をたくさん輸出して日本は成長してきた。その日本の製品を見てマザーは「ジャンク(低品質)」だと思ったようだ。日本は昔から一定して高品質な製品を作っていたと思っていたのだが、実は違う。マザーが子供だった1960年代〜1970年代の日本製品は、米国では低価格・低品質だと思われていた(*3)。1980年代あたりから日本製は高品質であるという認識が広まったのだ。

一方、中国で作られた製品も数年前は「低品質」というイメージが強かったが、最近ではそのイメージは薄れているように思える。例えば、スマホの部品も中国で作られているし、衣服も中国製だ。サムスン、LG、acerなど他のアジア勢の電化製品も高品質になってきている。この先、日本はどうなるのだろうか?既存の「高品質・高価格」の商品では他の国々の「高品質・低価格」の商品にいずれ勝てなくなるだろう。今の日本は既に「自分で何か新しい物を作り出す」以外に生き残る道が無いのだと思う。

プログラマとして、「日本人は新しいものを作れない」と言われたことに腹が立ったし、自分が新しい物を作れる人間にならなければ、という良い教訓になった。これから新しい物を作って行ける国になればもっと良く良くなると思う。

補足:
日本が起源の製品ではないからダメだ、という主張ではない。僕はアニメも見るしゲームもする、車も日本車が好きだ。

(*1) 製品として売り出したのがAppleで元々はXEROXの発明
(*2) ヒットを受けて同じようなものを作り出した、という意味で書いた。ただ、その時代は戦争中でアニメ制作どころでは無かったのかもしれない
(*3) http://boards.straightdope.com/sdmb/archive/index.php/t-633258.html